さて、2020年、3月初頭に私は再びホーチミンに向かう事となった。世間ではコロナウィルス問題が本格的に騒がれ始めた頃だ。
2月中旬には別のソリューションの出張でバンコクを訪問したが、いずれの出発点である中部国際空港は、コロナ対策の影響を受け、たった1ヶ月で大きく様変わりしてしまっていた。
旅客はまばらで、どこもかしこもスカスカに空いていた。いつもはほぼ満席の飛行機も同様だ。一人で一列占拠できるほどの空き具合である。
多くの人に心配を掛けてしまいとても恐縮だったが、それでも私にはどうしてもこのタイミングでホーチミンに行かなければならない理由があった。もちろん“川上工場の改善”だ。
現場は常にベストを尽くしている。それは痛いほどよくわかっていたが、“常駐のマネジメント経験者”不在では、早急に求められる業務改善の全てを担うには荷が勝ち過ぎるのだ。
タンソニャット国際空港に降り立って以降の様変わりした街の様相は先日も記したのでここでは割愛するが、コロナウィルスへの警戒がさらに強まっていることは、街全体からひしひしと感じられた。
空港や飛行機、ホテル、そして風変わりした街全体の雰囲気から、いささか妙な緊張を強いられる滞在である。
しかし、初めて完成された川上工場を訪れた私が感じたのは、ある種の“感慨深さ”であった。
川上工房から始まったベトナムでのウクレレ製作は丁度一年が過ぎ去った頃だったが、たった一年で、まごうかたなき“一端の工場”が出来上がったのだ。
大変な状況な最中で不謹慎に思われるかもしれないが、熱いものがグッと胸の奥から沸き起こる感じがした。
この川上の“新しい城”を真に完成させるためにも、今回の出張は必ず成果を出さなければならない。
3月に入り、川上工場では大きな変化が一つあった。
IT事業部からの出向で、この一年ウクレレ事業の通訳の柱を担ってもらっていたアンさんが退職したのだ。
彼女は通訳以外の“新しい道”に進むという事で、以前の訪越の際に直接本人から話を聞いていたのだが、実際に工場に来て彼女の姿が無いと、少し寂しい気持ちもあった。
とはいえ、私は彼女から退職の挨拶を受けた時、非常に惜しい人材ではあったが、無理に引き止める事は敢えてしなかった。
真にやりたい事が見つかったならば、やりたい時にやらなければ必ず後悔するからだ。
また、万が一その道が間違いであると思える日が来たら、遠慮なくウチに戻って来れば良いと言った。
そして彼女は、本来12月末で退職するつもりであったにも関わらず、2月の末、つまり、川上工房を閉めるまでの間、全力でサポートしてくれたのである。
入社当時から随分と通訳の技術も上達していたが、彼女の最も素晴らしかったのは人柄だ。
芯は強いが、とても面倒見が良く、柔らかで人当たりが良いのだ。この人柄の良さに工房スタッフ一同は彼女にとても好感を持っていたに違いない。
その証拠に、私は日本にいたので同席できなかったが、スタッフ全員による送別会が開かれ、その時の写真に写った皆の表情は、非常に楽しそうであり、少し寂しそうだった。
良い出会いがあれば、良い別れもある。
残された者達は、後にこれが良い出会いであり、良い別れであったと笑顔で語るためにも、これからに全力を尽くすべきなのだ。
\ R A N K I N G /
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