兼松に一喝されたトムさんであったが、彼の図太さは半端ではなく、兼松の怒りをよそに、全く懲りる事なく我々に対して毎日の様に金策のアプローチを続けてきていた。
ここで最も被害にあったのは、“通訳のアンさん”であった。
兼松自身はベトナム語が堪能なわけではないので、実質的な対応の窓口はアンさんが行っていたわけだが、トムさんはなかばストーカーのごとく、アンさんに“救済を求めるメッセージ”を毎日の様に送り続けてきたのである。
メッセージは大体が支離滅裂な文章で、同情を誘う様なものが多かったが、とにかく要は直ぐに金が必要だから助けてくれ、という内容であった。しかし、同じベトナム人であるアンさんから見ても、あまりにも筋が通らない話だという印象だったようで、当然に応える事はできず、トムさんの望まない回答を返さざるを得なかった。
基本的には、トムさんのそうした話にはいちいち取り合わず、相手をしなくても良い、という方針で対応してもらってはいたのだが、それでもトムさんがアンさんを相手に執拗に訴え続けたのは、アンさん自身の穏やかで優しげな印象と、とにかく「真面目に話を聞く」という、本来は長所であるはずの性格が災いしてしまったのではないかと思う。
余談だが、元来「通訳」という仕事は本当に難しいものである。
簡単に言えば「言葉を双方向に正確に訳して伝える」というのが仕事ではあるのだが、“生きた言葉”のやり取りを訳すというのは、ただ単純に“正しく訳せば良い”というわけではない。
特に、感情の入り乱れる込み入った打合せの際に通訳をする場合は要注意だ。言葉の表面だけでなく、真意が理解できていないと双方の意図が伝わらない事は多々あるし、逆に、理解するが故に通訳者の価値観や意思、考え方が入り込みすぎると、それはそれで、相手方に本来の意図とは異なった受け取られ方をされてしまう事も十分にあり得る。
そうした場合、話し手は、通訳が発している言葉も相手方が発している言葉もわからないわけであるから、「なぜ話合いがスムーズに進まず、噛み合わないのか」が、理解ができない状況に陥ってしまう事になるのだ。
それ故に、話し手と通訳者の”シンクロ”は、最も大切な事なのである。
ただ、このシンクロというのは、特にネガティブな話合いの場合、おそらく相当なエネルギーを消費する事になる。
その最たる例が、トムさんとの”ネガティブ極まりない”会話の通訳なわけであるが、双方のネガティブな思考や感情を、自分の内に取り込み、理解して伝えるというのは、相当にしんどかったに違いない。
まして、”怒りを伝える”ための通訳などは、どうしても“嫌な言葉”を伝えなければならないので尚更だ。
仕事であるので仕方がない事と言えばそれまでだが、先述したトムさんからのストーカー的メッセージ攻勢も相まって、一連のトラブルは彼女にとって、まさに「とんだ災難」というべきものだったのである。
そして、そうこうしている内に事態は急変を見せる。現場の川上からの報告で、トムさんがいよいよ“危ない”というのだ。
“危ない”というのは一体どういう事かと言うと、どうやらトムさんがそろそろ“飛ぶ”らしいという事である。
この頃工場では、川上の指揮のもと、最も技術力の高いトムさんの弟であるゴックさんを中心に作業が進んでいた。
そうした中でトムさんは、借金の事が気がかり過ぎて、ほぼ仕事が手に着かず、一日中落ち着きなく思い悩み続けているという状態だった。
口を開けば、と言ってもスマホのGoogle翻訳だが、とにかく借金苦の愚痴や相変わらずの泣き落とし的な話ばかりで、川上としては最早相手にしても仕方ないと、トムさんをよそに、迫りくる納期のために作業に没頭するしかなかった。
ところがここのところ、借金取りが工場に押し掛けて来る様になり、トムさんがどこかに連れ去られて帰って来ないというような事が頻繁に起こるようになっていた。
とはいえこれは暴力的な事ではなく、あくまで話合いという事らしかったが、それでも、日増しにトムさんの様子が更におかしくなっている事は、誰の目から見ても明らかであった。
しかしながら、そうこうしている間にも、クラウドファンディングのリターンの納期は一日一日と近づいてくる。一刻も早く、安定した生産を行えるウクレレ工場を創り上げることこそが、この時の我々にとっては至上命題であった。
本当にトムさんが”飛ぶ”のかどうかは別としても、我々は万が一に備えて、とにかく最速で「プランB」を推し進める事にしたのである。
そしてそれから数日後、工場もスタッフも、進めていた仕事もすべてそのままに、とうとうトムさんは忽然と”姿を消した”のである。
次回
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